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純恋月(じゅんれんげつ)


 これは、混じり気のない恋。三日月が浮かぶ空の下で出会った、私と彼の物語。



「いたっ」



 足の裏がチクッとして、歩みを止める。履き慣れたスニーカーを見下ろして、小石でも入ったかなと眉を顰めた。


 薄闇に包まれた周囲を見回して、人影がないことを確認すると、靴を脱ぎ、トントンと小さな侵入者を追い出す。

 この遊歩道は気をつけないといけないらしい。


 靴を履き直して小さく息を吐くと、傍らの濃紺に染まった湖に視線をやった。深夜の1人散歩は秘密の雰囲気が漂っていて楽しい。

 生憎と、曇り気味の空で辺りは暗いのだけど。



「月が見えないのは残念だな……」



 水面に映り込む月は、さぞかし綺麗だろうなと思う。

 まぁ、天気に恵まれなかったのは仕方ない。


 私は気持ちを切り替えて、再び歩き出した。


 少し涼しい風を浴びながら、砂利混じりの足音を聞く。微かな虫の鳴き声が、草木がさざめく音が心地いい。


 パシャッ



「あ……」



 湖の方へと伸びた桟橋からシャッター音が聞こえてきた。顔を向けると、空に向かってカメラを構えた男性がいる。


 その時、タイミングよく雲が移動したのか、三日月が顔を出して男性を照らした。

 いいや、正確に言うなら彼を照らしているのは、遊歩道に沿って点々と佇む街路灯だ。


 パシャパシャパシャッ



「ふぅ……」



 立て続けにシャッターを切ってカメラを下ろした男性の横顔は、月のように優美だった。

 少し垂れた瞳は柔らかな雰囲気を漂わせている。

 けれども、三日月と語らっているようにも見えるその姿は、神秘的ですらあった。


 不意に、その視線がこちらへと向いて、胸が高鳴る。彼は少し目を丸くすると、はにかむように微笑んだ。



「こんばんは」


「……こんばんは」



 トクトクと加速気味の鼓動が止まらない。


 どうしたんだろう、私。



「仕事で、写真を撮っていたんです」



 彼はどこか恥ずかしそうに、そう言った。


 ……仕事。写真家なんだ。



「月が、綺麗ですよね」



 するりと口をついて出たのはそんな言葉。本当は月よりも彼の方が印象的だった。

 パチパチと瞬きをした彼は、ふにゃりと表情を崩すように微笑(わら)う。



「はい。あの輝きを写真に収めたいくらい」


「ぜひ、見てみたいです」



 彼が、そんな顔をするほど好きなものを。


 すると、彼はパッと表情を明るくして、「よかったら見てみます?」とカメラの中の画像を見せてくれた。


 隣に立つ彼との身長差、筋張った手、細長い指、時折こちらを見て自慢げに微笑う顔。

 そんなひとつひとつのことに胸がときめいて、トクントクンと大きな鼓動が聞こえる。


 今日撮った写真だけじゃなく、過去に撮った写真まで一緒に眺めて、それを撮った時のエピソードを聞いて。たまにふふっと笑いながら、数十分は話し込んでいた。



「あ、すみません、こんなに引き止めてしまって」


「いえ、気分転換に散歩をしていただけですから」


「散歩ですか……お1人で?」


「はい」



 彼は少し考えるように視線を逸らすと、カメラをケースに仕舞う。



「こんな時間に女性が1人では危ないですから……お家の近くまでお送りしますよ」


「え?」


「あ、俺も充分怪しいか……! いえ、明るい通りまででも」


「そんな……お仕事中だったのでは?」



 嬉しいけど申し訳ないという気持ちで返すと、彼はパチリと一度瞬きをして、静かに視線を逸らした。



「えぇっと……実は、少しだけ下心があったり……」


「下、心?」



 私はキョトンとして、次第に顔が熱くなるのを感じた。

 今が夜中でよかったと心底思う。


 照れ笑いを浮かべた彼と共に帰った日から、きっと、私達の恋はゆっくりと愛に向かい始めていた。



fin.

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